はなの妊活日記

27歳で結婚した私が41歳で出産するまで

はじめての流産

こんにちは。

 

少量の出血はあったものの、茶色いオリのようなものでした。妊娠初期にはあることなので、心配はありましたが、家でジッとしているよりは気分転換にもなると思い、友達とのランチにでかけました。

楽しく会話していましたが、「あっ何かでてきたかも?」という感触があり、お手洗いに行くと鮮血が出ていました。ナプキンはしていて、それに収まる量でしたが、これはまずいと思い、一番近くにあった、救急病院にタクシーで駆け付けました。

救急病院は、近所のおじいちゃん先生から、出産と何かのトラブルの際はこの病院を紹介するといわれていた広尾の日本赤十字病院でした。

病院に到着し、受付を済ませて、看護師さんと少しお話しました。

看護師さん「何かでた?」と聞かれましたが出血以外は思い当たらず何のことはわかりませんでした。

待合室で受診を待つ間に、お腹が激痛レベルになってきました。その様子を見て看護師さんが横になれる部屋に移動させてくれました。そこで大ちゃんにメール。

「出血して、日本赤十字病院に来ている。入院するかもしれない。」と。

本当は今すぐ着て欲しいくらい心細かったのに、「今すぐ着て」という言葉が思い浮かびませんでした。

 

本当に辛い時に、「助けて」と言えない私が現れました。

 

すごい遠回しに、「今すぐ着てほしい」、と言いたいのに「入院するかもしれない」なんていうので、私の心の緊急事態に大ちゃんは気が付くはずもありません。今は、こんなに冷静に分析しているけれど、当時は自分でも自分の気持ちに気が付いていませんでした。

 

メールをしている間も強くなる腹痛。リズムをうつような痛み、これは、、、陣痛ってこんな感じなのか。とどこか客観視している自分もいて。どれくらい横になっていたかわかりませんが、しばらくするとお手洗いに行きたくなりました。

お手洗いに入ると、大量に出血。びっくりしてトイレ内の緊急ボタンで看護師さんを呼びました。心臓がバクバクしてきました。看護師さんという職業は本当に尊敬です。冷静に対応してくださいました。心臓はバクバクしたままでしたが、診察室に呼ばれました。50代のずっと笑顔な女医さんでした。状況を説明し、内診台に乗りました。「子宮の中は綺麗になっています。今回は残念だったけど、2,3か月したらまた妊娠できますからね。また来てくださいね」

「また来てくださいね」という言葉が心の深いところに響きました。「またここに来よう」と誓うような気持ちになっていました。

 

お会計を待つ間、心ここにあらずのような状況で、座っていました。そうとうボーっとしていたと思います。自分の人生史上で一番、魂が抜けたような感じだったと思います。そんな私を見つけ、一人の看護師さんが話しかけてきてくれました。相談室のようなところに案内され二人で話しました。

看護師さん「今日はどうやってここに来ましたか?」

私「タクシーで。お昼を食べたら出血して、ほにゃららほにゃらら」

話しているうちに、胸が熱くなって、いつの間にか、しゃくりあげるように号泣していました。こんな号泣したのなん年ぶりだろう。

やっと看護師さんに呼ばれた意味を理解しました。魂が抜けたような状態の患者さん(私)をこの世に呼び戻すために話しかけてくれたんだなと。

あのまま、帰宅してたらどうなってたんだろう。お財布なくしたり、何かにぶつかったりしてたんだろうか。そんなことを考えながら帰宅しました。

 

大ちゃんの帰宅後、普通に二人でご飯を食べて、今日のことを話しました。大ちゃんは泣いている私を、優しく抱きしめてくれました。

 

ものすごく子供が欲しかったわけでもないのに、妊娠しようとしてすぐできて、妊娠する準備も、覚悟も何もできていないのに、それでも流産て悲しいものです。

この時は充分泣いたと思っていたけど、後でまだ泣き足りなかったと気づく時がやってきます。

 

そして、笑顔の女医さんの言う通り3か月後からタイミング法で妊活を始めることになります。

 

 

 

 

 

35歳 いよいよ子作り開始 そして初めての妊娠

こんにちは。

 

5年の駐在期間を経て、やっと日本に帰国しました。

今度は東京の住宅街。

引っ越し荷物を受け取ったり、役所の手続きをしたりして、会いたかった人にあって、ばたばたが少し落ち着いた頃、思い出したかのように、

 

「そうだ!子供つくろう!」

 

となぜかこの時、ひらめきました。

付き合って以来、避妊を続けていた私たちでしたが、初めて子供を作ってみました。

すると、2週間後、生理予定日を過ぎても生理が来ない、なんだか体が火照る気がする・・・もしやこれは・・・ということで、薬局で妊娠検査薬を購入し、検査すると

まさかの陽性!何度も箱の説明書きを確認しましたが、確かにこれは妊娠しているようです。いや、妊娠していました。

引っ越したばかりで、良い産婦人科もわかりませんでしたから、とりあえずネットで調べて近所にある評判のよさそうな産婦人科へ行きました。

問診表を書き、尿検査を済ませ、いよいよ診察室へ。白髪のハツラツとしたおじいちゃん先生でした。内診を済ませると、

「尿検査での妊娠反応はある、でも子宮の中に袋が見えない」

「最悪の場合、200人に1人の確率位で、子宮外妊娠ということもある。」

ということでした。通常、妊娠5,6週で胎嚢が見えるはず。でも今回、私の場合、生理開始日もよく覚えていないので、もしかしたら排卵の時期がずれて、妊娠何週目かがはっきりわからないので、あと10日後にもう一度、診察に来るように、ということでした。

そこからネット検索魔と化し、 『妊娠しているのに袋が見えないってどういうことだ?』 『胎嚢って何?』 『妊娠何週目で胎嚢が見えるの?』 という妊娠の仕組みを始めてググりました。東京の人気産婦人科は妊娠6週位で分娩予約をしないと予約が取れないということは聞いていたので、良さそうな産める病院も同時に探しました。

流産してしまうかもしれない心配と、産みたい病院で産めるかという両極端な心配をしていました。

 

ネット検索魔になって1週間、「おなかの赤ちゃんどうなっているんだろう?」と自分の気持ちを抑えきれずに、再度、受診しました。

そうしたら、白髪のおじいちゃん先生がすごくめんどくさそうに「前回と状況はかわらないですね。10日後に来てくれって言ったのに」といわれ受診終了。

そりゃそうですけど、、、ものすごい不信感が募りました。

この時の私は気が付きませんでしたが、先生の立場になると、「察しろ」ということだったのだと今になって思います。

そうこうするうちに、次の受信日をまたず、少量の出血が始まりました。

 

 

 

 

 

 

33歳 高齢出産が気になりだす

こんにちは。

 

旅行から戻ると、大ちゃんの頭痛も微熱もなくなりはしなかったけれど、通常と言える日常が始まりました。

 

引っ越し当初は、生活のセットアップ、新しい友人知人との出会い、日常の買い物、街の風景、街の匂い、全てのことが新しく刺激的な中、無我夢中で新しい環境に適応しようとしていました。その頃に比べると、旅行後は、生活が多少落ち着き、ほっとした時期でした。

英語が全く通じない国で、自分の言いたいことが言えず、ノドが詰まる感じがとても苦しかったので、現地の言葉を習得すべく語学学校にも通い始めました。現地の言葉がカタコトでもできるようになると、あの看板は何が書いてあるのか、バスや電車の時刻表も読める、理解の幅が広がっていきました。日常の買い物も対面販売でも憶することがなくなり、街で出会う人とも軽い会話はできるようになり、何より自分の言いたいことが言えるようになり、生活の質がグッとあがっていきました。

 

毎日は刺激があって、文化的な楽しみもあって、週末にはLCCという格安航空会社を使い、安い時には片道3千円、高くても1万5千円という価格で、簡単にパリやミラノに出かけて買い物や観光をして、駐在のストレスを発散していました。

 

そんな生活を続ける中、駐在生活も3年目を過ぎ、私も33歳になっていました。35歳から高齢出産になるのはわかっていたけれど、駐在の期間は、いつ終わるのか、あと何年続くのか知らされることはありませんでした。

この時に、インターネットで調べた統計で34歳からガクンと妊娠率が下がるグラフを見つけました。心の中ではヤバいな、と感じていましたが、現地は医療事情も悪く、医療用語の現地語もわからず、初産する勇気もなかったので、夫婦で話し合い、今は2人で身軽に旅行をしたりして、二人の時間を楽しもう!ということで落ち着きました。

 

この時の決断は、これで良かったと、今でも思っています。

 

ライフプランや家族計画をしっかりたてること、こどもが欲しいと思うならなるべく早くした方がいいこと、妊娠率の低下などを考えると、「こどもはいつか・・・」ではなく若いうちから計画的に考えないといけないのは頭ではわかります。でも、その時の状況でそうもいかなかった、それが私たちでした。

 

そしてようやく駐在5年目、帰任の辞令が出ました。4年目くらいから、生活に飽きてきていたこともあり、まだかな、まだかな、と待ちに待っていた辞令でした。

この時、私は35歳になっていました。

 

 

 

 

 

大ちゃんプチ鬱発症後、レスに!

こんにちは。

 

大ちゃんは、しばらく微熱も下がらないし頭痛も収まらず、なんだかピリピリした空気を発していました。私もそれに影響され、家の中で、なんだか緊張し、大ちゃんに気を使っていました。家族が鬱になった時、「頑張れ」と言ってはいけないという知識だけはありましたが、自分自身が頑張って普通に生活しているというか、普通を演じている感じの毎日でした。

本当は、初めての海外生活で、「今日はこんなことがあった」「あんなことがあった」と、くだらないけど聞いてもらいたい話がいっぱいありましたが、大ちゃんの様子を見ながら、話したり話さなかったり・・・。人一倍おしゃべりな私は自分の好きにしゃべれないというのもストレスでした。

 

そんな生活を1か月続けましたが、状況を知っている上司とも相談し、少し早めの、そして長めの夏休みをとることにしました。

行先は南フランスのニースとカンヌそこから南イタリアに移動してナポリアマルフィカプリ島。期間は2週間。

冬場に日照時間の短い北欧は自殺率が高く、冬季うつ病という病気もあります。でも、北欧でうつ病になった人は南欧に半年くらい滞在して、明るい日差しを浴びると、うつが治ってしまうんですって。

時期は冬ではなく初夏だったけど、大ちゃんの頭痛も良くなればいいなと思って二人で選んだ行先でした。

 

私も日々の緊張から解放されて、大ちゃんも仕事から解放されて、南欧の強い日差しを浴びて、綺麗な景色を見て、美味しいワインを飲んで、ちょっと浮かれているような、付き合い始めた当初の自分達に戻ったような感覚でした。

 

そして夜。

 

久しぶりの旅行だし、お酒も飲んでいるし、そういうことをしようとしたら、できないではないですか!(詳細は詳しく説明できませんが、大ちゃんのアレがあれだったということです。。。)

 

でも、この時は、「そりゃ、そうだよね」とお互い話しました。「疲れているし、そういう気分になっただけでもすごいよね。」と。

私は、本心で、仕方ない、と思っていましたが、この時、大ちゃんの本心はどうだったんだろう。きっとものすごいショックだったのではないか、と思うのです。

 

というのも、この先、しばらくレス生活になるからです。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結婚3年目 海外移住 そして大ちゃんプチ鬱発症

こんにちは。

 

30歳で、夫の大ちゃんの海外転勤に帯同するため、初めての海外生活が始まりました。

行先はヨーロッパの片田舎。

日本では、直前まで、引っ越し準備、会社の退職準備と引き継ぎ、役所の手続き、送別会、目まぐるしい日々を過ごし、出発当日、一人で飛行機に乗り込みました。

 

それまでやることで手がいっぱいで目の前のことを一つづつ必死で進めていっていたのですが、飛行機の中で突然、頭痛がしてきました。

きっと環境が変わることへの、ものすごいストレスがかかっていたのだと思います。この頭痛は1週間続きました。

 

空港に降り立つと、3か月先に赴任していた大ちゃんが花束を乗って待っていてくれました。どうやらこの国では空港で人を出迎えるときにお花を贈るという習慣があるようです。たった3か月でヨーロッパの男になったか、と思いましたが大ちゃんなりの私への気遣いだったようです。

その後、私の生活のセットアップができるまで1か月程、大ちゃんは慣れない仕事と、私のお世話、どちらも手を抜かず気にかけてくれました。その甲斐あって、私は一か月後、仲の良い同世代の日本人友達もでき、初めての海外で刺激も多く、大変なことが多いながらも少しずつ生活が楽しくなってきていました。

 

私の生活が整う様子を見届けるようにして、大ちゃんに異変が起きました。

真面目で頑張り屋の大ちゃん。一生懸命、全力で仕事も家庭も頑張っていたのでしょう。ある頃から、頭痛が毎日続くようになり、37度の微熱が続くようになりました。

夜もぐっりとは眠れていないようでした。そしてなんだかピリピリした空気。

でも、会社には行き続けていました。病院にも行きました。検査で脳のCTまで取るも異常なし。ドクターからは少し休むようにということで、取り立てた身体の病気やうつ病などの診断もなく、経過観察になりました。今だったらきっとうつ病で薬が処方されるんだと思いますが、海外だったからか、当時はそんな感じでした。

 

本当は、私が慣れない環境で日々緊張し、職を失い、所属を失い、自信を失い、自分の泣きたい気持ちは、、、封じ込めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

27歳で結婚したわたし

こんにちは。

 

結婚したのは27歳でした。母を早くにガンで亡くした私は寂しさから不安定な彼女という立場ではなく、妻という確かなものに憧れていました。

大学卒業と同時に付き合い始めた彼氏の大ちゃんと自然な流れで結婚しました。

 

入社5年目、仕事もそれなりに面白くなり、趣味にも忙しく、東京のオシャレな街に住み、充実した毎日でした。いや、今思うと充実していたというよりは祭りのような騒がしい日常だったかもしれないのですが。仕事も慣れ徐々に認められるようになり、昼間は仕事に全力を注ぎ、夜はワイン学校、料理学校、友達との飲み会、、、とにかく忙しい日常でした。

 

当時は子供が欲しいなんて考えてもみなかったんです。いつか子供を持つだろうけど、それは今ではない、そんな感じでした。お恥ずかしながら、自分自身がとても子供で、とてもぼんやりしていたんです。

 

ある日、飲み会から酔っぱらって帰宅した大ちゃんが「子供つくる?」と聞いてきました。どうやら一緒に飲んでいた同期が「子供がかわいい」とのろけていたらしいんです。

私は「いやいや、まだまだ、いつかね」必死にごまかして。今が楽しい、自由でいたい、そんな気持ちしかありませんでした。

 

 

そんな生活に終止符を打ったのが、30歳の時でした。大ちゃんに海外転勤の辞令がでました。私は、自分の仕事が楽しかったし、一度辞めたらもう二度と戻れないと思い、転勤についていくことを躊躇していました。期間は短ければ2年、長ければ5年。2年なら単身赴任でもいいのではと思いましたが、万が一5年になったらそれは長すぎる・・・考えた末、結局、ついていくことにしました。

 

私のとっては初めての海外生活が始まります・・・